話題として相応しいか否かわかりませんが、そのような話題もよいのではないかと思い徒然になるまましたためました。私とは、門間 清秀(現在75歳の後期高齢者)です。

 私は福島県福島市瀬上町という田舎の農家7人の6番目に生まれました。7番目の弟は2歳で亡くなりましたので、私が“ばっち子(末っ子)”でした。父母と兄3人、姉2人と私の8人暮らしでした。

父は“喘息(ぜんそく)”持ちで、母は、私の弟を亡くした衝撃で“心臓病”になり、農作業は、長兄をはじめ兄姉そして私、全員が小学校のころから農作業(稲作、果樹園)をやらなければなりませんでした。

私の役目は、ウサギ、ヤギの世話(早朝から食料草の確保)、稲作の農繁期には、田んぼでの“牛の鼻取”の誘導、リンゴの果樹では、花・小粒実の間引き、台風が向かって来るとなると“夜”でも、“リンゴ採り”(台風で落下したものは商品価値がないので、その前に採取)するのです。耕運機等ない時代ですから、農作業は春夏秋冬に手仕事でやるわけです。

 そんな訳で他の子供達とあまり遊んだ記憶はないのです。もともと父母は明治時代に三男、三女として生まれていたので、“水飲み百姓”だったのです。

父は、小学校4年で、庄屋に丁稚奉公として売られていったのです(大正時代です)。第2次世界大戦で敗戦した日本が、マッカーサー元帥の農地解放政策で多少の土地が確保でき、農家になったわけです。子供も農作業者として使われたのです。そうしないと生きていかれなかったのです。

一方、遊ぶ代わりに多少の時間を勉強に注ぎました。父と母は、自分の境遇から子供たちには何とか大学まで行かせようと節約に日々を過ごしたようです。

 私は何とか東北大学工学部に入学することができました。その時の父の喜びは、私の人生でも最高の喜びをみたようでした。入学したとて、お金の送金がそうあるわけでもなく、奨学金とアルバイト(サンドイッチマン、石炭の三輪自動車での運搬、家庭教師等)をやり、それでもだめな時は、同郷の友とパンを分け合って腹を満たす(つもり)で相互援助をしたことを覚えています。

大学では航空部に入部し、日曜には霞目飛行場でグライダーでのフライト練習に打ち込みました。それ以外のマージャン等は皆無でした。大学院2年時にグライダーを、失速・墜落させてよく生きていたものだと、そして後輩君に申し訳ないと現在も思っております。せめてと、現在も毎年クラブ部費を送付しております。                   

文責 門間

次回は、私の人生(その2 三菱重工入社と品質管理活動開始)です。